院長 増田 和幸(ますだ かずゆき)
1969年 (昭和44年) 6月生まれ。
関西大学 社会学部 社会学科卒業後、プログラマー、システムエンジニア、トライアスロンショップ店長、フリーエンジニア、システムコンサル営業を経て整体師の道へ。
いぎあ☆整体塾
ミオンパシー上級マスター修了。
趣 味
- [keikou]トライアスロン[/keikou]、マラソン
- [keikou]写真を撮る[/keikou]こと
- 音楽を聴くこと
- スポーツを観ること
- デジタルもので遊ぶこと
トライアスロンは17シーズン出場経験あり。IRONMANニュージーランド('95)、IRONMAN北海道('15)、IRONMANフランクフルト('16)、全日本宮古島トライアスロン大会('94 '11 '12 '15)、佐渡国際トライアスロン大会('95)、アイアンマン70.3セントレア常滑ジャパンなど30レース以上完走。
1993年から走り始め、フルマラソンはホノルルマラソン、いびがわマラソン、福知山マラソン、河口湖マラソン、掛川マラソン、京都木津川マラソン、神戸マラソンなど、もう数えられないほど完走しています。
性 格
どちらかと言えば、飽き性で気の短い性格だと思います(笑)
興味を持ったものに関しては、何事もとことんやらないと気が済まない性格。反面、興味の無いことにはとことん無関心というダメなところも。その割に、自分の両親には「器用貧乏」と言われています。
整体師になった経緯
大阪に住んでいた20代の頃、トライアスロンを始めたものの、練習すれば脚の故障や体調不良になるばかりで困り果てていたところ、自宅の近所にあった整体院「いぎあ☆すてーしょん」に通いだした事が、整体との最初の出会いになりました。
いぎあ☆すてーしょんの松尾院長先生に身体を診てもらってからというもの、故障知らずの身体になり、競技レベルもガンガン向上していくので、「整体ってすごいなぁ」と思いましたが、まだこの頃は自分がその仕事をするという考えはありませんでした。
結婚してすぐ30代になり長男が生まれた頃、コンピュータ関係の仕事よりもスポーツインストラクターやトレーナーのような仕事に就きたいと漠然と思いつつ、目先のことが優先で具体的な行動には移しませんでした。
ところが、前職のシステム営業をやっていたお客さんとの商談中、突然パニック障害のような症状に襲われた事が転機になりました。40才になってすぐの事です。
このまま営業の仕事が続けられるのか不安になっていたさなか、この身体をなんとかしたいという思いで、かつて身体を診てもらって良くなった「いぎあ☆すてーしょん」のホームページを見たところ、「いぎあ☆整体塾」という整体スクールを開校している事を知り、「整体という仕事で、昔の自分のように身体の痛みや体調不良を抱えている人の身体が良くなれば、もっと多くの人に喜んでもらえるのではないだろうか?」という気持ちが高まってきました。
40才を過ぎて、小さい子どもを二人抱えていながら、この決断を下すにはそれなりの勇気が要りましたが、「いぎあ☆すてーしょんの松尾先生から整体術を学べば、間違いなくお客さんに喜んでもらえるレベルの効果は出せるだろう。あとは自分がどれだけ情熱と誠意をもってこの仕事に取り組めるかだ。」と思い、10年ぶりくらいに松尾先生に電話をしたのが、整体師を目指すはじめの一歩でした。
整体師として実現したいこと
腰痛や肩こりなどの身体の痛みや不定愁訴に困っている方たちに、症状改善のお手伝いをして喜んでいただくことはもちろんのこと、スポーツを愛好するすべての人に、私の整体で故障から身体を守り、楽しいスポーツライフを謳歌して欲しいと思います。
「名古屋(愛知)のアスリートはレベルが高いなぁ。」と、他の地域から言われるようになったら最高ですね!
生い立ち
【生い立ち〜幼少時代】
関西出身の両親の間から、名古屋市西区中小田井で生まれました。
生まれて間もなくして、名古屋市中川区の千音寺という所へ移り住み、高校卒業までこの地で過ごしました。
幼い頃は、とにかく本を読むことが好きでした。幼稚園では、クラスで一番身長が高く活発なガキ大将肌、そして読み書きの達者な園児だったので、結構目立つタイプの子どもでした。
【生い立ち〜学生時代】
小学校に入ってからは、野球、サッカー、陸上、ドッヂボールなど、身体を動かして遊ぶことが多かったです。三年生からは毎年クラス対抗リレーの選手に選ばれ、何度もアンカーを務めたほど足は速かったです。
小学校高学年になってゲームセンターに通うようになり、任天堂のゲーム&ウオッチのようなポータブルゲーム機などにも熱中してました。今のデジタルもの好きは、この頃に醸成されたのではないかと思います。
中学校に入学してバレーボール部に入部しました。入部してしばらくは徹底的に下半身を苛めるトレーニングの日々。うさぎ跳びなど今ではあり得ない間違ったトレーニングを散々やらされ、一年生が終わる頃には「オスグット・シュラッター病(膝の下の脛骨という骨が出っ張って痛む骨軟骨炎)」を患いました。
この経験が、のちにトレーニング方法論を真剣に考えたり、当時受けた外科的治療方法に疑問を持つようになり、整体師を志す伏線になったような気がします。
高校に入学してからはバンド活動に熱中していました。
二つ上の先輩が大学生になって、そのバンドに誘われるままギターを弾いていました。高校生が大学生と一緒にバンドをやるのは経済的に厳しいものがあったので、学校に隠れて本屋でバイトに励んでいました。いえ、本が好きなもので(笑)
大学進学にともなって、名古屋から大阪へ出て一人暮らしを始めました。
当時、スポーツといえば遊びでスキーをやったくらい。下手なクセにウエアとギアにはお金かけてました。まずカッコから入るところは、のちにトライアスロンを始めた時も同様でした(笑)
とまぁ、こんな感じの学生時代でした。
【社会人になってから】
大学を卒業して大手のシステムインテグレーターに入社し、プログラマーやシステムエンジニアとして仕事をしていましたが、日々の激務に追われて「このまま仕事だけの毎日を続けてて、オレの人生これでイイのか?」と疑問に思い、仕事には全く関係の無い「フルマラソンを完走する」という目標を立てて走り始めました。社会人一年目のことです。
最初はまったくと言っていいほど走れませんでしたが、少し走れるようになると欲が出て、トライアスロンにも挑戦したくなりました。スポーツジムに入会してプールで泳ぎ始め、トライアスロンバイクも購入し、本や雑誌から情報を得ながら手探りでトレーニングを始め、レースにもたくさん出場しました。また、趣味が高じてトライアスロンショップで働くようにもなりました。
本や雑誌に書かれてある通り、トレーニング方法や身体のケアを試してみましたが、効果あるどころか身体を痛めかねない、納得のいかないものがいろいろとありました。今でも一般には常識とされている方法論も、自分から見ると首をかしげたくなることがいくつかあります。
このように、これまでのトライアスロンやマラソン競技を通じて考えたこと、感じたこと、気づいたことは、整体の施術の中でも存分に活きてくると自信を持っています。
[aside type="sky"]「整体を通じてお客様に健康を提供し、幸福な人生を送っていただく」[/aside]
これが私の整体師としての理念です。